モニュメントをつくる

 京セラ美術館で開催中の村上隆展が大好評で平日でも多くの方が訪れていました。隣の京都近代美術館での富岡鉄斎展に訪れた際、前回では出来上がっていなかった屋外彫刻を見ようと立ち寄ったのですが、期待以上にカッコが良かったです。

 私は村上隆氏の作品にはあまり興味を感じないのですが、このような展覧会を構成企画されることには好感を持っています。なぜなら、こういう楽しみ方は希望を与えてくれるからです。

 よって、今回の屋外モニュメントも実に必要であったと思います。今日は藤とつつじの花とのコラボレーションが見事でしたが、4月上旬には桜との美しい光景が広がっていたとのこと、それも見たかったですね。

村上隆展 ~もののけ京都~ @京セラ美術館

 

 しかも、これは、フィレンチェでの記憶にあるミケランジェロダビデ像に重なるものがあるとも思いました。

 何が重なる部分なのか、切実さの軽重はあるものの、その年の守護神を設置したいとの思いの部分でしょうか。西を向いている点は「日想観」を表しているので、敵国を想定しているのではありませんが、その都市の心の拠り所を設置することは重要ではないかと思うのです。できれば、京都のどこかの場所に常設するのもありかと思います。当初の反対は想定されますが、大阪千里の太陽の塔にもつながるとも思います。

 

 通底すると言えば、なぜか、かって川村記念美術館でみた、バーネットニューマンの「アンナの光」を思い出しました。

 

 「人は、気がつくという感覚において、崇高になれる。あるいは崇高である。」                                                                                                                  Barnett Newman

  オールオーバーである体験は絵画ではあえて作りださなければならないが、彫刻では自然体で行われます。それは、人にとって必要なことだと思うのです。

 

 「アンナの光」を再度見てみたいという欲求は高まる一方ですが、既に国内では見られません。どこが所有されているのかも公表が成されておらず、万人が見ることができないことは人類の損失だと思います。

 

 美術作品は共有されてこそ生きています。

 

 

 

kyotocity-kyocera.museum

伝説をつくるもの

 雪舟展を京都国立博物館に観に行ってきました。何々伝説と名しているこの手の展覧会は、得てして当事者の作品が集められずに周辺の作品で構成されていることで落胆することこともあるのですが、本展覧会は、6点の国宝すべてを配置した3階フロアが夢のような贅沢な空間となっており、しょっぱなから強力なストレートパンチを食らうしびれる体験ができます。6点は通期展示だそうで、冒頭の挨拶文内にも、今展覧会に貸し出しをしてくれた方々への御礼が記されていることに学芸員の意気込みを感じることができます。

 

雪舟伝説「画聖の誕生」 @京都国立博物館 

 

 こんなにも小さな画面だったのかと戸惑いを覚え、修復をしているとはいえ美しい支持体や描画素材の色に感嘆し、画面構成の凄さに圧倒されます。

 しかし、この展覧会の狙いはその雪舟がどのように伝説をなっていったかにあり、以降のフロアに集められた、その証明となる後進たちの数多の作品の質の高さにも驚かされるのです。

 等伯、探幽、山雪、江漢、若冲蕭白光琳、、、と、彼らも私が本日最初で食らったパンチのようにとにかく初見でびっくりしたことでしょう。よくよく見るとそんなに上手ではなさそうに思えるのですが、そんなことは些末なことであり、技術を超えてまで訴えかけてくる色遣いや構図があるのだと思うのです。それは、今回は雪舟の信仰的な面があまり取り上げられていなかったのですが、彼の生き様がにじみ出ているのではないかと思うのです。

 私は雪舟は絵だけを追い求めた聖人ではなく、天才的な技術も持ち合わせていないために中央から追われて、その挫折を自分外の装飾で補おうとする、実に凡人的な俗人であったと思うのです。しかし先述した後進たちは実に天才であり、自分には持ち合わせられない、人間的な力強さ、それは欲にまみれた向上心な側面から表出してくる美に憧れたと思うのです。ピカソがルソーに心を動かされたことのようなものでしょうか。

 だから、今回の雪舟作の作品であっても、何でこんなに構図がおかしいのだろう、何でこんな線を引く途中で勢いが止まているのだろう、そういった点が目につくのですが、初見した時すでに全体の「美」に心を奪われていますから、そんなことはどうでもいいように思えるのです。

 2階でのワークショップは、展覧会を見てから参加されるとより理解が深まります。

ワークショップのシート

 

 彼らは雪舟に出会い、どのように自分の制作に落とし込んでいったのかも考えながら作品を観ていくと実に楽しい。

 私はこれまで知らなかった原在中という画家がとても気に入りました。

 そしてあえて言いますと、彼らが決して体験できなかった雪舟のほぼ全作品をこの目で見ることのできる贅沢さは、なかなかできない体験です。

 

 

www.kyohaku.go.jp

 

暗闇の中で美をつくるもの

 今回のマチス展を見ているときに何故か長谷川利行を思い出し、その後2つの本を読みなおしてみました。「マチスのみかた:猪熊弦一郎著:作品社」と「長谷川利行の絵:大塚信一著:作品社」です。意識はしていなかったのですが、どちらも同じ出版社から送り出されていました。

マチス展 @国立新美術館

 それは最初に絵を鑑賞していた時に、2人の画面内の色彩の扱い方や筆跡の空間の取り方など表面的な最終表現に共通点があるのかと思ったのですが、2冊の本を読了して、対象物を自分のものにするまでの工程をとても大事にしているということが通底している部分だと思いました。どちらもデッサン力があるということでしょう。

 

マチス「長い髪の女」1919@ワシントンナショナルギャラリー/長谷川「ある女」1938

 

 本中で猪熊はマチスから、まずは対象物をよくみる学習を疎かにしてはいけないと何度も諭されたと書き留めているし、大塚は、長谷川はその生き方から情熱的に退廃的即物的即興的だと思われがちだが、マスターピースの絵を理論的に学習していたうえで自分の表現をしていると、その誤解を解きたい思いからこの本を著した、と語っている。(本中で長谷川が上野の図書館に良く通っていたことが記されている。)

このことは上載したデッサンを見るだけ納得がいくし、今回のマチス展でも、また前回東京都美術館で開催されたマチス展でも飾られていた美しい木炭デッサン群をみてもそのように思いました。

 数年前、ある展覧会で偶然に出会った長谷川の「少女」や「卓上の花」を見た時には、思いの強さや独創的な技術ばかりが目に入り、この美しさを表現するにはどのようにしたらいいのだろうかと頭を抱えたのですが、マチスが言うように、最終形を先に追い求めるという間違いを犯すことなく、第一にも基本的にも対象物をよく観察することを省いてはならない、ということでしょう。

長谷川「少女」1935/「卓上の花」1938

 

 そして、大塚が繰り返し語るに、長谷川はあの大きな戦争という不安な中で、戦争を描くことなく、あまりにも美しい者だけを描いていた、という点も、マチスとのつながりがあるのではないかと思うのです。暗闇の中で生きていながら、こんなにも美しい宝物を生み出していることに奇跡を覚えますし、それは今の時代にもあり得ることなのだと思います。

 マチスと長谷川、2人が見ていたものは彼らの目の前のことだけであったのですが、それが普遍的なものを生み出しているのだと思いました。

 

 

 

 

歓待する場をつくる

 小野正嗣さんが、最後となる担当の日曜美術館河井寛次郎記念館を訪れていました。小野さんが美を語る姿勢はとても好きだったので少し寂しさを覚えます。番組最後に食事をおいしそうにいただくお姿なのが美術に対する氏の考え方を表しているのではないかと思ったし、もしかしたら、最後のこの河井寛次郎記念館を訪れるという企画も、氏の要望で実現したのではないかと思うのです。かつて氏は、「芸術は歓待の場所を作れるもの、それを与えることができるものと、信じている。」と語っておられ、まさに、今回の河井記念館は、寛次郎がそのことを具現化した空間であり、住居兼制作場所そしてギャラリーであり来訪者を歓待し時には励ましの場所でもあったからです。河井の死後今なおその機能が存続していて、番組内では、それがこの記念館の役目だと現館長も語っておられました。作品が生み出された場所で対峙し、それらに囲まれた空間で作家の紡ぐ言葉と接することは、人にとって必要な時間ではないかと思うのです。

 その昔、私は同じような空間を訪れたことがあり、それは、ポンピドューセンターに生前と寸分違わず再現されているC・ブランクーシのアトリエでした。

 

C・ブランクーシ展 ”本質を象る”  @アーディソン美術館

 現在アーディソン美術館で久しぶりにブランクーシの展覧会が催されていますが、その一室にも、ブランクーシのアトリエの一断片を表す部屋が設けられており、主催者は、このアトリエの重要性を伝えたいと願った想いはよくわかります。もちろん残念ながら、あの当地の雰囲気や迫力は体験できることではありません。あの場所で感じたことは、高い天井、北向きの陽光が差し込む光陰、台座まで計算された作品の数々から受けたことで、この場所でブランクーシは、本当に求めてくる者たちだけを歓待し、自分も他者も鼓舞し続けたんだと、鬼気迫りながらも安らげる場所となっておりました。

 

 

 

 

 ブランクーシは、一つ一つを丁寧に積み上げていった作家です。その原点である、石膏削り出しの作品は、今なお色あせることない彼の手のひらの感触が染み込んだ美が存在し、まさに本質を見つけたいがために向きっていたのだと納得させられます。

 

 

 

 そして石に挑み傑作が生まれました。

 

 

 

「接吻」は本当に凄過ぎます。それは、何か計算上で出来上がったものではなく、また美の形を作りすぎていないことが美を貶めていないのだと、今回改めて感じました。それは各部分に見てとれるのですが、特に手首と手甲とのつながり部分の造形にそのことを感じます。ここは、部分だけの美を見ているともう少し削ってしまうところなのですが、そこまでの削る込みをしないことで、どこかしら野暮ったさはのこるものの、全体の美の迫力が損なわれずに済んでいると思うのです。

 

本質を象るには、部分での丁寧な表現と全体を見渡せる力が必要です。

だからこと、ブランクーシの作品と対峙する人は、自分では気が付かないけれど、縦横に広い空間も感じながらとらえていると思います。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ブランクーシはブロンズ研磨も全て自分一人で行います。その昔、ブランクーシのそのような手技からの力を得たいと思い、ある美術館で、鋳造作品なら構わないかと思って「空間の鳥」を触ったことがあり、すぐさま監視員の方に注意されたことを思い出しました。その時は本当にそれを求めていたのでした。

 

www.artizon.museum

祈りの姿をつくる

 祈りの姿を作り続けたいと願っています。

 

 そのような折りの絵を、好きな作家さんが描いて展示していると知って観に行ってきました。その構図が、以前に描いた絵とよく似ていたので、その主題の意味を知りたかったのです。

島村信之展 @gallery Suchi

 

  作品は、いつもの通り、とても素晴らしい技術でもって描かれており、その秘術に裏付けされた静謐な色合いとマチエルが美しかったです。

 

 

 島村さんご本人からお話を聞くことは出来ませんでしたが、なぜ、このような主題の絵を描きたかったのだろうかと、画面から読み取ることは出来ませんでした。

 私の場合は、その主題にしたい切実した思いがあったからなのですが、氏にも同じような思いがあったことでしょう。ただ、画面からは、祈る対象については、私との違いを感じました。いつの日かその確認をしたいと望んでいます。

 今、私は祈りで求めています。それは心底から求めていることです。しかしヨブが味わったようにどうしようもない時には仕方がありません。今はその時なのだと思います。だから、このような時にこそ「祈り」の絵を描きたいと思うのです。

 

 

島村 信之 展

2024年3月23日(土)―4月6日(土)
日・月曜日休廊
島村 信之

23rd Mar. – 6th Apr. 2024
Closed on Sun. Mon.
Nobuyuki SHIMAMURA Exhibition

www.gallerysuchi.com

島村 信之 展

2024年3月23日(土)―4月6日(土)
日・月曜日休廊
島村 信之

23rd Mar. – 6th Apr. 2024
Closed on Sun. Mon.
Nobuyuki SHIMAMURA Exhibition

 

松本涼氏のつくるもの

 薄い儚さを表してみたいと思っていた矢先、松本涼氏の彫刻を知って、ああ私が作りたかったものをすでに生み出されていると愕然としました。それは羨望であり、口惜しさというより、熱烈なファンになっていって、いわゆる「推し」というものでしょう、もう5年以上も追っかけをしている状態です。今回の新作も、作家のインスタグラムを通して制作過程を見ていましたところ、その新作の造形がこれまた私の求めている「器の形」であったため、これはこの眼で見てみたいと、無理をして遠征をしました。

@ギャラリーせいほう

 

 実物には、やはり映像を通してでは伝わらない迫力がありました。松本氏の作品は薄ければ薄いほど、その存在の重みが増しています。つまり、単に薄くしただけでは表現されない存在感があるのです。その理由の一つは、作家が試行錯誤のなかで見つけ出された、表面に細溝を入れていく細工で生み出されています。

 

 

 一見すると、年輪をそのままなぞっているように思えますが、先述したように作家が苦しみの中から生み出した、敢て線を彫り込む(彫り出す)といった表現スタイルで、この表現の有る無しで、作品の質は大きく違っていると思うのです。

 そこには技術の確かさも必要だと思うのですが、作家自身は、自分は下手くそだからこそ、自分を見つけるために制作をしていると仰います。意外な言葉ですが、謙遜というものではない、もっと確かな意味での内省のなかで制作をされていることの証明であり、そこにも氏の作品の存在価値が高くある秘密があると思います。

 今回の新作も器の高台部分の形にその精神が表現されているのだと思いました。器の価値は高台で決まるといっても過言ではないでしょうね。

 

 旧作にも数点再会し、眼福な時間を過ごしました。

 

 また、今回は初めて作家さんにもお会いすることが出来、、大きな人生の転換期にある私に、思いがけず握手をしていただけたことは、大きな希望を頂いた次第です。とても感謝なことでした。

 

「邂逅」-探究の彼方で- 滝本セレクション展

@ギャラリーせいほう 

見ることに徹してつくり出された抽象

 大阪中之島美術館に福田平八郎展を観に行きました。その昔子供の頃に父親から、福田の「鯉」の絵は水を描くことなく鯉のみを描いて水の中を表すことが出来ている、と教えて貰いました。また、「漣」を日本画の一つの到達点だとも言っており、半装飾的な風景画を描く父にとって目標とするものであったのではないかと思い出します。

 


 その「鯉」は今回見ることは出来ませんでしたが(別バージョンは展示されていました。)、「漣」はこの美術館の所蔵だけあってみることができ、また、その下図やアイディアスケッチ、また彩色の工夫などの資料も見ることができ勉強になりました。

 思い出の中では、綺麗な白地のなかに群青の線が心地よく描かれているとの記憶でしたが、福田は、金箔にプラチナ箔を重ねた地をつくっていると聞いて、そのような工夫をしていたのかと驚きました、しかしよく目を凝らして眺めてみても、確かに紙の白色ではないなと思えるものの、そのような仕掛けが施されているとは判らなかったです。

 

 

 昔は、もっとさわやかな雰囲気であったような気がするのですが、今回少しくすんで見えるのは、定かではありませんが、経年の影響かとも思いました。

 隣り合わせに展示をしているスケッチ類を見ると、単なる装飾的な自分よがりの線ではなく、しっかりと水面を観察して、とても写実的かつ必然的な線であることが確認できました。。。しかし、よく考えてみたら、水面では、漣の線の方が光に反射をしているわけですから、こちらをプラチナ箔で表し、空間を群青で表したいと思うのが普通ではないかと思ったわけです。凡人の私がそのように想像してみますと、とても良くない画面が頭に思い浮かびましたので、やはりこの方が美として成立しているのだと納得がいきました。

 このように、福田は、写実を極めながら、少しの装飾を組み入れることで、彼なりの画面構成を生み出しています。彼の絵の魅力はなんといってもゆるぎない構図だと思うのですが、細部は写実力に支えられていて、今展覧会では膨大な写生帖で示しながら、そのことを証明していました。

 

 

雪の表現も、、、、

 

桃が盆に映る姿も、、、、

 

極めつけは、青空に浮かぶ雲さえも、、、、

 

しっかりと現実を見つめて、貪欲に写しとろうとしたスケッチの上に存在していました。

 

「人間は凡人になるほど落ち着くようだ。俺(わし)らは、画にこそ多少は自信があっても、どだい凡人であることを、欣(よろこ)んでいる。」平八郎

 

 それら写生にあった和三盆を写生した絵があり、そのお菓子そのものをお土産に買うことが出来ました。

没後50年 福田平八郎 | 大阪中之島美術館