好きな画家の水野暁さんが携わるワークショップがあると知り、彼の肉声を聞きたくて参加をしてきました。以前は遠く群馬にまで出向いての展覧会以来でしたから、地元神戸での開催はとても喜ばしい事でした。
どこが氏の作品の魅力かというと、本画を常に現地に赴き描いているということです。風景画というのは、ある美しい顔を見せる自然の一瞬を切り取ることが唯一の目的のように思えるなかで、氏は朝から夕方まで、晴れでも曇りでも、春夏秋冬を問わず、現地に赴き、現地で描き切ります。かって「浅間山」を描いた作品でも、数ヵ月かけて載せられた絵の具の層が全ての気象環境が混在とした画面となっており、まさに目の前にある大きな頂が自分の足元からの続きに存在をしている実感が画面から溢れ出しています。それは、決して室内で、2次元の媒体を観ながら描いているものとは雲泥の差があり、絵を描く人という以前に、今を生き抜いている人だと思うのです。その人から生れ出た絵は生きています。
今回のワークショップの主催者の方も、いわゆる美術畑の方ではなく、雰囲気学学会といわれる研究者であり、「雰囲気学」という学問を立ち上げ、新たな研究として今に風を起こそうとしている方であります。その研究の一環として、今回は、その「雰囲気なるもの」を実践している画家の水野さんをお招きし、参加者全員で探求するというものでした。それは、単に一人の画家の存在を研究するのではなく、言葉通り、場の雰囲気を保つのは多くの人々との関わり合いのなかで生じるものなので、動くダンサーをスケッチするというワークショップも催すことで、その場の雰囲気で人の感情はどのように変化するのか、という狙いがあったのでしょう。
よって、私の、単に画家の技術を知りたいという卑近で狭い欲求などはどこかに飛んでしまう2日間となり、新たな大きなテーマを覚えることが出来ました。
1日目の水野氏のトークショーから、絵を描くことが小さな範囲で行われるものではなく、大きな世界なのではないかと思い知りました。もちろん水野氏のこれまでの画業を振り返る事の中で、絵を描くことのいくつかのヒントを得ることもできたのですが、繰り返すように、それを超えた広い視点を与えられた気がします。
(水野氏が師の磯江毅氏から教わった、「絵は焦るな、アウトラインから取るな、触っているところに形があるのだ、アウトラインはつかめないだろう、触っているところで捉えるのだ。実態を捉えることに努めよ、早く形にしようとするな、ものをしっかりと見ろ。」という言葉を聴けたことは嬉しかったです。)
話を戻すと、水野氏の「日本の杉、二本の杉」という杉を描いた大作があるのですが、これも、2本の杉の木を何月もかけてその場で描くことで、本来は存在しない杉の木の姿を描いており、その形状は実在しているものとは違ても、しかしそこに確かに存在している大木なのです。色も形も全てが絵というものではなくなり、自然界にあるものでもなく、心に存在することこそが、実際に在るものとして生き続けているのです。
水野氏が今取り掛かっている作品の制作途中の映像をみせていただきましたが、これまた200号ほどの大きさに、湖の水の塊を捉えようとしているもので、それこそがリアリティを描き出す秘訣であり、その仕事ぶりには尊敬の念とそこに少しでも連なりたい願いが沸き起こりました。
アンディゴールズワージーが「「息を吸うこと」は「drawing breath」との言葉を残しているらしいです。
絵を描く時、対象物を線で捉えようとしますが、日世界の物は決して静止しておらず、常に揺らいでいるので、描く線も一つではないはず。そのことを実践するのが2日目のワークショップで行われました。
今まで行ってきたのスケッチ・ドローイングの類いではなく、踊るダンサーの方を描くことは、今までの絵を描く意識を捨て去り、横の動きだけでなく、奥行きのある動きを捉えようと求めることになります。それは、絵を描くという行為を改めて再考する、とても新鮮な体験を与えられました。
「まだまだ成すべきことが絵にはある。」との水野氏の言葉を噛みしめて、自分の制作に活かしたいと思います。
「雰囲気学」という新たな試みの側面も知り。ティム、インゴルド氏やモーリス・メルロ・ポンティ氏、ゲルノート、ベーメ氏も教えていただきました。自分の狭い視野が広がったと感謝です。