つくるを受け継ぐもの

 大好きなロックオペラ「JESUS CHRIST SUPERSTAR」を、劇団四季エルサレムバージョン公演で観ました。この作品との最初の出会いは、1973年制作の映画を高校時代に名画座で観たことになります。大阪肥後橋の大毎劇場であったか京都一条寺の京一会館であったかは記憶が定かではないのでですが、信仰も相まって、その格好の良さに衝撃を受けました。

 

 その後、レコード、CD、DVD、Youtubeと、年を重ねて聞きこむほどに各楽曲のメロディや歌詞の深みがその時々の心境に染みてくるものがあり、心身ともに疲れた時の滋養になってきました。心がすさんでいるときにこのアルバムを耳にすることで励まされてきたのです。

 

 さて、劇団四季の公演のものも当初から知っていたのですが、ここまで観覧する機会を逸してていて、つい先日大阪駅構内に掛かっていたポスターに偶然出会い、すぐさまネット予約を試みるものの、すでに終演日までのどの日もほとんど席が埋まっていて(端の方は空いていたのですが)、ある一日だけ、1席だけぽつんと中央の席が予約可能であったのですぐさま押さえた次第です。

 

 映像では何度も見ている劇ですが、リアルな生歌で楽しむことは長年の願いでした。しかし、正直なところを言うと、これまで何百回となく英語で聞きこんでいたので、冒頭からの日本語での調子になかなか気持ちが乗らないまま、前半の演奏面では退屈を覚えてしまいました。ただそれは公演側の問題と言うより、私の内の問題なので仕方がありません。曲の迫力さでいうと、1972年オリジナルのものに勝るものはなく、演出で言うと1973年の映画版がすでに斬新な演出でしたので、その後本作品はいろんなバージョンでアレンジがなされているのですが、なかなか正攻法では21世紀の耳目には耐えられないのかもしれません。そういう意味で2012年のティム・ミンチンがユダを務めたバージョンがオリジナルに匹敵すると思います。なにせロックオペラですから、曲はやはりエレキサウンドがつんざいていないといけないと思うし、コンテンポラリーな演出が必須だと思うのです。

 

 

 では、劇団四季エルサレムバージョンは駄作かと言われるとそれはNoです。何が私の心をとらえたかというと、エンターテイメント面ではなく、とても信仰的であるということでした。そう、イエスやユダその他の登場人物が各人神様との関係性に悩み戸惑いを覚える姿が実にリアルに描かれていたことが、単に耳での楽しみだけであったこの作品への見方を一転させたと思うのです。歌うというより母語で語られていることで、曲と言うより言葉が紡ぎ出されていたのです。クライマックスの「スーパースター」のところでも、イエスに何故と問うのではなく、イエスに寄り添うような歌詞になっていると感じました。

 だからこそ、劇団四季のファンの方も多くいらっしゃると思うのですが、そうではない幾人かの人が、通常のクライマックスの「スーパースター」」ではななく、「エピローグ」の場面で泣いていたのです。ああ、イエスが罪を背負って身もだえていると、、、。

 そして、それらの物語を芳醇にさせるべく、通常ならな耳で魅せるところを、眼で楽しめるような舞台美術の演出がとても工夫凝らされていると思いました。一つの坂道だけで、様々な照明などの演出でその場面に引き込まれていくのはなかなか見ごたえがありました。

 


 ひとつの作品をプロ素人問わずに受け継いで演じていっています。面白いことに、物語は決して変えません。英語だと歌詞そのものも変えていません。しかし他国の言語に変換するときには、歌詞も変えて物語をすこし変更することもありでしょう。しかもそれが日本という他宗教の国で一番聖書的に成されていることに驚きを覚えます。

 いずれにしろ、いろんなバージョンで受け継がれていくことは、本当に名作だと思います。

 

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