絵画は再現の記録として発達してきたので、光をどのように表現するかが画家の目的でありました。それは単純な明暗だけでなく、彩度や色相対比なども駆使して、見えない光を画面で感じさせようと工夫しています。今回、テート美術館所蔵の近現代美術コレクションから、画面(空間)の中にひかりを表現した作品に焦点をあてた展覧会を見ますと、本当に画家(作家)たちの苦労がよくわかり、その苦難の中から生み出されたオリジナリティあるひかりの数々が堪能できました。
ウィリアム・ターナーの「陰と闇」などの作品群では絵の具層の厚薄でひかりを表そうとした工夫が見れます。ハマスホイの作品は、光と言っても感じられないほどの存在ですが、やはり人物や壁を描こうとしたのではなく、そこに当たる光を色で表していると思います。ご多分に洩れずモネの作品はまさに光を捉えようとしているので、筆致とひかりとの関係を見ることができます。
抽象でもブリジット・ライリーの「ナタラージャ」は見かけでは判断できなかったのですが油絵具で描かれたと知って、思わず近くに寄ってみましたが、油絵の具としての特性は判らなかったです。しかし、油絵具だからこそ、この作品の色(光)の輝きは活かされているのかもしれないと思います。はたして筆記具は何を使用しているのだろうかとも知りたくなりました。
私の大好きなバーネット・ニューマンの「アダム」では、その奥深い赤色(臙脂色?)が、聖書のアダムをより表しているのだと思います。その微妙な色を表すには、この作品においてのジップは直線ではなく、今作品のように下方で少し左に婉曲していく必要があったのだと思いました。ヴィヤ・ツェルミンシュの「海・砂漠」も手描きながらの迫力があり、これを描いている時に作家はとても幸せを感じられる時間だったろうなあと思います。
オラファ―・エリアソンの「黄色vs紫」の部屋は感銘を受けました。中央に吊るされた透明の円盤板がゆっくりと回っていて、そこに光が照射されているのですが、円盤板を通過した光は先の壁に紫色の形が映り、円盤板を反射して反対側に映った光は黄色になっていて、それが円盤板の回転に合わせて部屋をゆっくりと照らし巡っているのです。物質もしくは私たち人間の表と裏を神のひかりで暴かれているような感じになりました。
光るということは、自らが内から光るものと、外からの光が反射をして光るもの2通りがありますが、私たち人間は光ることができません。道の傍らに落ちている石も光ることはなく、光らせようとするには、その表面に何かしら光る物質を塗布する必要がありましょう。しかし、それは一見光っているようですが、あくまでも表面に覆われた物質が光っているだけで、その石そのものは光っていません。塗膜が剥がれると何も変わっていない石があるだけです。石を光らせるには研磨して、表面の傷を小さく細かく浅くしていくことが方法です。それは時間も労力もかかるものです。そして、傷つくことは嫌なことだけれど、そのような傷をいっぱい受けて輝くというのは、実社会における人間関係を考えることに繋がるのではないかと思います。つまり私たちはやはり恐れずに人と関わることで成長する(光る)のだと思います。それはある時は痛さを伴うけれど、多くの関わりの中で、その傷が細やかに成されていくと思うのです。
話が逸れてしまいましたが、量質転化の法則を気づかせてくれる展覧会でした。