棚田康司の木でつくるもの 

 人類学者の山極寿一氏が、他の哺乳類と違って人間に白目があるのは、それでコミュニケーションをとっているのだ、と言われていたのを、今回棚田康司さんの木彫展をみて思い出しました。棚田さんは、自身の人体彫刻制作の際、杏形に開いた空間のでの黒目の位置を決めるのに苦労していると、以前伊丹の美術館での展覧会の際に語られていたからです。そういや、かの佐藤忠良氏も彫刻における眼の表現にはいろいろな試行をされているのも、氏の著作で読んだことがあります。

棚田康司展 @ミズマアートギャラリー

 会場に入ってすぐ左手にある2体の人物像は、やはり白目の部分の大きさが大きく物語っており、作者の苦労を追体験してしまいます。しかも、目線だけでなく、首や胴の傾げ方も言葉として、こちらに何かを訴えています。

 

 

 

 

 メインスペースでは4体の人物像で構成されていて、展覧会タイトル通り、縄跳び用の大繩がそれらをまとめる役目をしていました。鑑賞者がそこに入ったり出たりして、彫刻家の意図と自分の感情をシンクロさせることを求められています。

 


 知り合いでもなんでもないのですが、長きに渡って制作を続けるこの彫刻家が、紆余曲折しながら段々と高見に登っていく道程を知っている気がします。彼が若い時分にある雑誌の特集で作品が取り上げられていて、その際は、なんと痛々しさだけが表面化しているのだろうと少し嫌悪感を覚えながら、それで、頭の記憶に残っていて、何十年か経って今のスタイルで大きく名前が知れ渡ってきた際に、ああ、あの時に知った作家なんだと驚いたことがあります。新作もどこかしら痛みを内包していることを感じるのですが、大きな壁を乗り越えた姿に一種の感動がありました。そして、今回一つの美に昇華した時期を更に超え、今、また新たな「優しさ」と言う穏やかな空気を纏った「木で作られたもの」がここにあります。こんな表現にまで至った彼を羨ましく思います。

 

 会場奥のサブスペースでは、さらにこの彫刻家の現在を表している作品があって、その場からなかなか立ち去れなくなってしまいました。それは丸彫りではなくレリーフの部類になるのですが、立体制作経験が浅い者にはとても作り得ない造形力です。やはり作り続けた者だけが見ることの出来る風景なのだと思います。

 

 



 最後に絵画も1点飾られていて、これは、立体に彩色を施す作者が、その合間に余った筆の絵の具を板に塗っていたことから表現が始まったのではないかと思うのです。(違っているかもしれません、すみません)

 具象を追究している時には、しかも「眼」をあれだけ集中して作り出すだけに、絶えずこうした抽象的なイメージに心の安らぎを求めることはとても理解できます。その板に描かれたイメージもまた、棚田さんのバランスのとれた今の表れなのだと思うのです。

 

 

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