本阿弥光悦のつくるもの 「土の刀剣」

 本阿弥光悦作の茶碗は何度でも見たくなります。

その目的は二つあって、一つは、光悦碗を観ていると、もっと自由に生きていいんだよ、って励ましをもらえるからです。今回展示の茶碗も、そのほとんどが初めから狙っていたのではないかと思うぐらい焼成時に入った大きな疵があって、それがどうかしましたかって、すました顔で補修が施され鎮座しています。もちろん継ぎの表情が並なレベルではないことで美しさが保たれているわけですが、室町時代中期の文献に「茶碗のこと、ことごとくそろひたまえるはまれなるものなり。ひとところ良きところがあればそれを用ふべし。」 とあるように、どこか一つ良いところがあったらそれでいいではないかと、励ましてくれるのです。

本阿弥光悦の大宇宙 @東京国立博物館

 二つ目は、その作りの秘密を眼で確かめたいからです。どちらかと言うと成型のことではなく、施釉の方法を見破りたいのです。評論家や研究家の人たちはそのことに触れていて、今回の展覧会のカタログにもその箇所があるのですが、作り手の目線でいうとズレていることが多いと思います。例えば胎土と釉のことを混同していたりとかです。

 何度も観ても、光悦の作る陶器は新しい発見があって、見飽きることがありません。一日中眺め続けることができるのも、今展覧会で彼の作陶を「土の刀剣」って表現していたことで納得がいきます。

 

 



 今回の展覧会では、彼の「書」や「漆器」の凄さも少しはわかるようになったかなぁ、と思います。

 「書」は、墨に透明感があるってキャプションに書かれていて、そういう目で観てみると、なるほど、淡ではなく透き、なんですね。

 

 そして「書」においても、矛盾を含む言い方になりますが、作ることをあるがままにかつ作為的に狙い、そのうえで、うまくいたところは素直に喜び、失敗は偶発性の美として受けいれ、適宜修正を楽しんでいるのですね。

 

 

 革新的な「漆芸」は、職人さんが仕上げるので、そのような「揺らぎ」が許される余地はなく、手業は正確です。しかし、そのアイディアにおいて、自由闊達な試みがされていて、やはり、他の「漆芸」とはどこか一線を画している気がします。気負いがない、ゆったり感がたまらないですね。

 

 「東路乃 さ乃ゝ かけて濃三 思 わたる を知人そ なき」と「舟橋」の言葉を鉛の形で隠し表す造形アイディアには舌を巻きます。

 叶わぬ恋の歌を、悲しみではなく、それもまた人生の妙であると、飄々と生き抜くよう背中を押してくれているようですね。

 

「一生涯へつらい候事至て嫌ひの人」 本阿弥光悦の言葉

 

 

 今回の展覧会では、彼の制作の根底には法華宗信仰が深く関わっていることを前面に謳っています。作家の制作の中心にあるものが、信仰によって確立していることが、今観る者にも必要なのではないかと提示しています。

 光悦は決して安穏と生きていたのではなく、厳しい現実を信仰によって乗り切り、他人にも支え支えられた歩みをされたのではないかと思います。そういったレンブラントに通ずるものが私の心をとらえているのだと思います。