歓待する場をつくる

 小野正嗣さんが、最後となる担当の日曜美術館河井寛次郎記念館を訪れていました。小野さんが美を語る姿勢はとても好きだったので少し寂しさを覚えます。番組最後に食事をおいしそうにいただくお姿なのが美術に対する氏の考え方を表しているのではないかと思ったし、もしかしたら、最後のこの河井寛次郎記念館を訪れるという企画も、氏の要望で実現したのではないかと思うのです。かつて氏は、「芸術は歓待の場所を作れるもの、それを与えることができるものと、信じている。」と語っておられ、まさに、今回の河井記念館は、寛次郎がそのことを具現化した空間であり、住居兼制作場所そしてギャラリーであり来訪者を歓待し時には励ましの場所でもあったからです。河井の死後今なおその機能が存続していて、番組内では、それがこの記念館の役目だと現館長も語っておられました。作品が生み出された場所で対峙し、それらに囲まれた空間で作家の紡ぐ言葉と接することは、人にとって必要な時間ではないかと思うのです。

 その昔、私は同じような空間を訪れたことがあり、それは、ポンピドューセンターに生前と寸分違わず再現されているC・ブランクーシのアトリエでした。

 

C・ブランクーシ展 ”本質を象る”  @アーディソン美術館

 現在アーディソン美術館で久しぶりにブランクーシの展覧会が催されていますが、その一室にも、ブランクーシのアトリエの一断片を表す部屋が設けられており、主催者は、このアトリエの重要性を伝えたいと願った想いはよくわかります。もちろん残念ながら、あの当地の雰囲気や迫力は体験できることではありません。あの場所で感じたことは、高い天井、北向きの陽光が差し込む光陰、台座まで計算された作品の数々から受けたことで、この場所でブランクーシは、本当に求めてくる者たちだけを歓待し、自分も他者も鼓舞し続けたんだと、鬼気迫りながらも安らげる場所となっておりました。

 

 

 

 

 ブランクーシは、一つ一つを丁寧に積み上げていった作家です。その原点である、石膏削り出しの作品は、今なお色あせることない彼の手のひらの感触が染み込んだ美が存在し、まさに本質を見つけたいがために向きっていたのだと納得させられます。

 

 

 

 そして石に挑み傑作が生まれました。

 

 

 

「接吻」は本当に凄過ぎます。それは、何か計算上で出来上がったものではなく、また美の形を作りすぎていないことが美を貶めていないのだと、今回改めて感じました。それは各部分に見てとれるのですが、特に手首と手甲とのつながり部分の造形にそのことを感じます。ここは、部分だけの美を見ているともう少し削ってしまうところなのですが、そこまでの削る込みをしないことで、どこかしら野暮ったさはのこるものの、全体の美の迫力が損なわれずに済んでいると思うのです。

 

本質を象るには、部分での丁寧な表現と全体を見渡せる力が必要です。

だからこと、ブランクーシの作品と対峙する人は、自分では気が付かないけれど、縦横に広い空間も感じながらとらえていると思います。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ブランクーシはブロンズ研磨も全て自分一人で行います。その昔、ブランクーシのそのような手技からの力を得たいと思い、ある美術館で、鋳造作品なら構わないかと思って「空間の鳥」を触ったことがあり、すぐさま監視員の方に注意されたことを思い出しました。その時は本当にそれを求めていたのでした。

 

www.artizon.museum