心の世界をつくるもの

いつの時も、革新を生み出す先人がいて、そこに感化された追従者がいます。先人は創出者としての迫力が抜きん出ているとして、追従者は様々なタイプに分かれているので、決して全てが一級品になるとは限りません。京都文化博物館で日本のシュルレアリスム展をみて、その実例を確認することが出来ました。

 

シュルレアリスムと日本 @京都文化博物館

 

 追従者もまた、知ってか知らずかその風土にあったものを生み出すわけですから、ある意味革新的なものを作り出すものです。久しぶりに靉光の「眼のある風景」を見て、その色の多様な奥深さに改めて圧倒されました。あーこれを描いて旅立ってしまったのだと思うと、残された作品は絵を超えた物体として命が宿っているようです。

 そのうえで展示壁面を少し進むと、この度初めて知りました浅原清隆という人の「多感な地上」がドーンと目に飛び込んできました。靉光たちの絵の画面は、やはり歴史を感じることが拭いされないのですが、この作品の絵肌は、ついさっき描いたばかりのような瑞々しさがあって、筆致もとても戦前のものとは思えないのです。ああ、このような作家もいたんだ、この作品も名作に値するものではないかと、何故にあまり取り上げられていないのだろうかと、独り言ちてしまいます。しかも、この人も戦地ビルマから帰ってこれなかったのだと知り、やはり一つの物体である絵が奇跡のかけらのように思え、さらに奥深さが増したことにより愛おしさを覚えました。

浅原清隆 「多感な地上」 1939

 

 画業は時間の長短ではなく、今をどう表現するかであり、他者の追従でもない、自分の求めていることだけを、その手で表しているだけでしょう。今が明日もあるとは考えずにいたい。